
近大マグロから陸上養殖まで、日本の水産業革命を読み解く
2025年から2026年にかけて、日本では陸上養殖やゲノム編集など、FishTech(水産テック)分野のスタートアップによる資金調達が相次いでいます。
FRDジャパンやピュアサーモンジャパン、リージョナルフィッシュなど、一見すると異なる事業を展開する企業が、それぞれ投資家から注目を集めています。
では、なぜ今、水産業にこれほど多くの投資マネーが流れ込んでいるのでしょうか。
その答えを理解するためには、約20年前まで時計の針を戻す必要があります。
「魚の養殖」と聞いて、多くの人が思い浮かべるのは「近大マグロ」ではないでしょうか。近畿大学が世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功したニュースは、日本の水産業における歴史的な出来事として広く知られています。
しかし、あれから約20年。
日本の水産業では、静かに、そして大きな変化が起きています。
海ではなく「陸」でサーモンを育てる企業、ゲノム編集によって成長速度や付加価値の向上を目指すスタートアップ、AIやIoTを活用して養殖を効率化する企業など、新しい技術を武器にした挑戦が次々と生まれています。
これらは単なる養殖技術の進化ではありません。水産業そのものを変えようとする技術革新であり、近年では海外でも「FishTech(フィッシュテック)」という言葉で語られることが増えています。
本記事では、陸上養殖、完全養殖、ゲノム編集、AI給餌、IoTなど、水産業全体を変革する技術を総称して「FishTech(水産テック)」と定義します。
そして、「なぜ今、この分野にこれほど多くの投資が集まっているのか」を、技術の進化だけでなく、産業構造や社会課題、投資家の視点も交えながら読み解いていきます。
FishTech(水産テック)とは何か
まずは、日本のFishTech(水産テック)がどのように発展し、なぜ現在の投資ブームにつながっているのかを全体像で見てみましょう。
FishTechとは、水産業とテクノロジーを組み合わせた新しい産業領域です。
農業分野で「AgriTech」、金融分野で「FinTech」、食品産業で「FoodTech」という言葉が広まったように、水産業でもテクノロジーを活用して課題を解決しようとする動きが加速しています。
本記事では、FishTechを次の5つの分野に分類します。これらは一見すると異なる技術ですが、いずれも「水産業そのものをアップデートする」という共通の目的を持っています。
① 陸上養殖
海ではなく、陸上の大型水槽で魚を育てる技術です。
外洋環境の影響を受けにくく、水温や水質を管理しながら安定した生産を実現できます。
近年はサーモン養殖を中心に大型投資が相次いでいます。
② 完全養殖
人工ふ化した魚を成魚まで育て、その親魚から再び卵を採る技術です。
天然資源に依存しない持続可能な養殖として注目され、近畿大学のクロマグロ完全養殖は世界的にも高く評価されています。
③ ゲノム編集
病気に強い魚や、成長速度が速い魚などを開発する技術です。
品種改良よりも短期間で目的の形質を実現できる可能性があり、水産業の生産性向上が期待されています。
④ AI・IoT養殖
魚の泳ぎ方や食欲をAIが分析し、最適なタイミングで給餌を行うシステムや、水質・酸素濃度・水温をIoTセンサーでリアルタイム管理する技術です。
人手不足が深刻化する水産業において、省人化と品質向上の両立が期待されています。
⑤ 水産バイオテクノロジー
ワクチン、餌料、微生物制御など、生物科学を活用した技術もFishTechの重要な領域です。
魚を育てる技術だけではなく、「より安全に、より効率よく育てる仕組み」全体が進化し始めています。
つまりFishTechとは、「魚を育てる技術」ではなく、「水産業そのものをアップデートする産業」と言えるでしょう。
FishTechはどのように進化してきたのか
現在のFishTechブームは、突然始まったものではありません。
実は現在のFishTechブームは、40年以上にわたる研究と技術開発の積み重ねの上に成り立っています。
日本のFishTechは、大学や研究機関による基礎研究から始まり、その成果がスタートアップによって事業化されることで、一つの産業へと成長してきました。
まずは、その大きな流れを見てみましょう。

この流れを見ると、一つの大きな転換点が見えてきます。
2000年代までは、FishTechの中心は大学や研究機関でした。
「魚を育てられるか」「技術として成立するか」を追求する、研究開発の時代だったのです。
一方、2020年代に入ると状況は大きく変わります。
研究成果を事業化するスタートアップが次々と誕生し、ベンチャーキャピタルが成長資金を投じるようになりました。
つまり、日本のFishTechは**「研究の時代」から「産業化の時代」へ**と移行したのです。
この変化こそが、現在の資金調達ラッシュを理解するうえで、最も重要なポイントと言えるでしょう。
なぜ今、FishTechに投資が集まるのか
FishTechへの投資が活発になっている理由は、「魚の需要が増えたから」ではありません。
投資家が注目しているのは、水産業を取り巻く環境そのものが大きく変化し、新しい技術が不可欠になっているからです。
気候変動、食料安全保障、人手不足、そしてテクノロジーの進化──。
これら複数の要因が重なった結果として、FishTechは世界中の投資家から注目される市場へと成長しています。
海の環境は、私たちが思っている以上に変化している
これまで日本の水産業は、「海で魚を獲る」「海で魚を育てる」という前提で発展してきました。
しかし近年、その前提は少しずつ変わり始めています。水産庁が公表する『令和6年度 水産白書』でも、海水温の上昇や海洋環境の変化が漁業や養殖業へ与える影響が指摘されており、従来の生産モデルは転換期を迎えています。
実際、海水温の上昇による生息域の変化、赤潮や病害の発生、漁獲量の減少など、自然環境の変化が水産業へ与える影響は年々大きくなっています。
特にサーモンのように水温管理が重要な魚種では、安定した養殖環境を維持する難易度が高まっています。
こうした状況の中で注目されているのが、陸上養殖です。
陸上養殖では、水温や水質、酸素濃度などを人工的に管理できるため、自然環境の影響を受けにくい生産体制を構築できます。
つまり、FishTechへの投資は「新しい養殖方法への投資」というよりも、「気候変動時代の新しい水産インフラへの投資」と考える方が実態に近いのです。
食料安全保障という新たなテーマ
FishTechが注目されるもう一つの理由が、食料安全保障です。農林水産省によると、日本の食料自給率(カロリーベース)は38%(2024年度)にとどまっており、安定した食料供給体制の構築は国全体の重要課題となっています。こうした背景から、水産分野でも持続可能な生産技術への期待が高まっています。
日本は世界有数の魚食文化を持つ国ですが、その一方で漁業従事者の減少や漁獲量の低下など、多くの課題を抱えています。
天然資源だけに依存する供給体制では、将来的に安定した水産物の供給が難しくなる可能性も指摘されています。
こうした背景から、国や自治体だけでなく民間企業も「安定して魚を生産できる仕組み」の構築を急いでいます。
陸上養殖や完全養殖、ゲノム編集などの技術は、その課題を解決する有力な選択肢として期待されています。
投資家が見ているのは、魚そのものではありません。
「これからの食料供給を支えるインフラ」になり得るかどうかを見極めようとしているのです。
FishTechは「ディープテック」でもある
近年、多くのベンチャーキャピタルがディープテック分野への投資を強化しています。
ディープテックとは、大学や研究機関で培われた高度な科学技術を社会実装するスタートアップを指します。
FishTechもその代表例と言えるでしょう。
近畿大学によるクロマグロ完全養殖の研究。
大学発スタートアップによるゲノム編集魚の開発。
水産研究機関で培われた循環式養殖技術。
こうした長年の研究成果が、ようやく事業として成立する段階に入ってきました。
つまり現在のFishTechブームは、「新しいアイデアが突然生まれた」のではなく、「何十年も積み重ねられてきた研究成果が社会実装のフェーズへ移行した結果」と言えます。
これは近年注目される宇宙産業や量子コンピューターなどのディープテック分野とも共通する特徴です。
ESG投資との親和性も高い
FishTechが投資家から評価される理由として、ESGとの相性の良さも挙げられます。
天然資源への依存を減らし、持続可能な水産業を実現する。
フードロスを削減する。
水資源を効率的に利用する。
こうした取り組みは、環境(Environment)や社会(Social)の課題解決につながるとして、国内外の投資家から高く評価されています。
特に近年は、経済性だけでなく社会的インパクトを重視するインパクト投資も広がっており、FishTechはその対象分野としても注目を集めています。
投資家が本当に見ているのは「魚」ではない
ここまで見てきたように、FishTechへの投資は単なる養殖ビジネスへの期待ではありません。
投資家が見ているのは、
・気候変動に適応する新しい生産モデル
・食料安全保障を支えるインフラ
・大学研究の社会実装
・ESGやインパクト投資との親和性
・世界市場への展開可能性
といった、水産業全体の構造変化です。
だからこそ、陸上養殖、完全養殖、ゲノム編集、AI・IoTと、一見異なる技術を持つ企業が同じタイミングで注目されているのです。
これらは別々の市場ではなく、「FishTech」という一つの産業を形づくるピースと言えるでしょう。
そして、その変化を象徴する存在が、日本各地で生まれているFishTechスタートアップです。
次章では、現在特に注目を集める代表的な企業を紹介しながら、日本のFishTech市場がどのように広がっているのかを見ていきます。
FishTechマップ|日本の水産業を変えるプレイヤーたち
FishTechは、一つの技術だけで成り立つ産業ではありません。
陸上養殖、完全養殖、ゲノム編集、AI・IoT、水産バイオテクノロジーなど、それぞれ異なる技術を持つ企業や研究機関が連携しながら、新しい水産業を形づくっています。
ここでは、日本のFishTechを代表するプレイヤーを、技術分野ごとに整理してみましょう。
陸上養殖
現在、最も投資家の注目を集めている分野です。
海ではなく陸上で魚を育てることで、海水温の変化や赤潮など自然環境の影響を受けにくい生産体制を実現します。
代表的な企業として挙げられるのがFRDジャパンです。
独自の閉鎖循環式陸上養殖システムを開発し、国産サーモンの安定供給を目指しています。
また、ピュアサーモンジャパンも国内で陸上養殖プロジェクトを進めており、日本市場への本格参入を進めています。
関連記事:
・ピュアサーモンジャパンの資金調達
完全養殖
FishTechの原点とも言える分野です。
近畿大学が世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功したことは、日本の水産業における歴史的なブレークスルーでした。
完全養殖は「天然資源に依存しない水産業」の可能性を示し、その後の研究や事業化の土台を築きました。
現在、多くのFishTechスタートアップが誕生している背景には、この長年の研究成果があります。
ゲノム編集
魚そのものの性能を高める技術です。
京都大学発スタートアップであるリージョナルフィッシュは、ゲノム編集技術を活用し、成長速度や付加価値の向上を目指した魚種の開発を進めています。
従来の養殖技術とは異なるアプローチですが、「限られた資源でより効率的に食料を生産する」という目的は共通しています。
AI・IoT・スマート養殖
FishTechは、魚を育てる技術だけではありません。
AIが魚の行動を分析して最適な給餌を行ったり、IoTセンサーで水温や酸素濃度を常時監視したりする技術も急速に普及しています。
養殖現場の人手不足や経験者不足が深刻化する中、こうしたデジタル技術は生産性向上の鍵として期待されています。
今後はロボティクスや画像解析なども含め、「スマート養殖」がFishTechの重要な領域となっていくでしょう。
FishTechは、日本が世界で戦える数少ない産業かもしれない
日本は世界有数の魚食文化を持ち、長年にわたり養殖技術を磨いてきました。
近畿大学による完全養殖をはじめ、大学や研究機関には世界トップレベルの研究成果が数多く存在します。
さらに、高品質な水産物に対するブランド力や、水産加工・流通まで含めた産業基盤も、日本の大きな強みです。
一方で、課題もあります。
陸上養殖は設備投資や電力コストが大きく、海外企業との競争も激しくなっています。
技術力だけでは勝てない時代だからこそ、事業化を担うスタートアップの存在が重要になります。
そして、その挑戦を支えているのがベンチャーキャピタルをはじめとする投資マネーです。
まとめ|FishTechへの投資は「未来の水産業」への投資である
FishTechへの投資が増えている理由は、「魚が売れるから」ではありません。
投資家が期待しているのは、水産業そのものをアップデートする新しい産業の誕生です。
気候変動、食料安全保障、人手不足、ESG──。
こうした社会課題を背景に、陸上養殖、完全養殖、ゲノム編集、AI・IoTなどの技術が一つの産業として結び付き始めています。
そして今、日本は「研究する国」から「産業を生み出す国」へと変わろうとしています。
近大マグロが示した技術の可能性は、FRDジャパンやピュアサーモンジャパン、リージョナルフィッシュといったスタートアップへ受け継がれ、新たな市場を形づくっています。
資金調達のニュースだけを見ると、それぞれは独立した出来事に見えるかもしれません。
しかし、その背景には共通する大きな潮流があります。
FishTechへの投資とは、魚を育てる企業への投資ではありません。
次の時代の水産業をつくる産業そのものへの投資なのです。
